灰色の県から芋煮県へ。イメージを一変させた日本一の祭り

秋の定番イベントとして定着することができた日本一の芋煮会フェティバル。その第一歩の背景は決して平坦なものではありませんでした。

フェスティバル誕生のきっかけは、とあるアンケート結果にありました。山形県内で取られた「山形県の色は?」の回答第一位はなんと「灰色」。その理由の多くは山形には何もないから。といったものでした。この結果を受けて内心ショックを受けていたのが当時の山形商工会議所メンバー、程なくしてYEGの全国大会で山口県下関市のフグちり鍋を視察した際に、その大きな鍋に着目したメンバーが帰りの飛行機で「あの鍋をうちの芋煮でやれないかな。」とこぼした一言。このつぶやきが後に大きな動きになるとは、この時点で機上にいたメンバーは誰も想像できなったでしょう。

折しも山形発祥の芋煮会は他県にも徐々に広がりをみせており、ただでさえ宣伝下手と言われる山形が、オリジナルの芋煮会すら他県で名物化されない状況に陥っていました。どうにかして芋煮会を山形代表の一大イベントとして確立させたい。その一心で、山形商工会議所メンバーを中心とした「山形名物日本一の芋煮会フェスティバル」実行委員会が立ち上げられました。日本一の冠をいただくからには、名前負けしない相応のスケールが求められます。問題は山積みでした。まず第一に山形でごく日常とされる芋煮会をいかに話題性のあるコンテンツに磨き上げることができるのか?そこから試行錯誤の末に導き出された答えが。芋煮会のシンボルである鍋を日本一の大きさにつくること、その大鍋で日本一の食数を一気に調理するといった、これまで全く前例のない、規格外の、全てが初めて尽くしの一大事業でした。

第0回草案

大鍋の製造と第1回 日本一の芋煮会フェスティバルの誕生

巨大な鍋は山形の地場産業である山形鋳物の技術を駆使して直径5.6メートルの大鍋が作られ、その後も食材の調達から芋煮の調理方法等様々な課題に直面しましたが山形商工会議所メンバー、行政、地元企業、団体が一丸となって地元愛を合言葉に、1989年9月3日、ついに第1回日本一の芋煮会フェスティバルが開催されました。

その様子は全国ニュースで放送され、一般週刊誌にも取り上げられるほどの注目度で、見事全国PRに成功。以来日本一の芋煮会フェスティバルは30年以上に渡って開催されることに、時代もかわりメンバーも代替わりを繰り替えしてきましたが、第一回目から一貫する志「山形の食文化秋の芋煮会のPR」「地場産業の振興」はめんめんと受け継がれていくのです。

第1回開催時のポスター
第1回開催時のポスター
ヘリコプターで運ばれる大鍋
ヘリコプターで運ばれる大鍋